皆さんこんにちは、AAの永岡です。
最近はすっかり涼しくなり、秋らしくなってきましたね。さて、この季節は読書の秋とも称されますね。そこで今回は本にまつわるお話をします。
則天去私。(小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。)これは夏目漱石が晩年に理想とした境地であると言われています。しかし、この境地は漱石の初期の作品にも見られるだけでなく、漱石と交流のあった志賀直哉の作品にも見られます。具体的に場面を目で追ってみましょう。前者については、「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。(略)自然の力に任せて抵抗しない事にした。(P.544…(1))」という節から、後者については、「これまでの場合では溶込むというよりも、(略)それに抵抗しようという意志も自然に起るような性質もあるものだった。(略)今のは全くそれとは別だった。(略)なるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。(略)彼は少しも死の恐怖を感じなかった。(P.553…(2))」という節が挙げられます。
私はこの「則天去私」の「自然に身をゆだねる」という部分の考え方から、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が思い浮かびました。受験勉強の毎日ももう後半戦に入りました。夏休みまでにインプットしたことをアウトプットしていくなかで、「今までやったはずなのにどうしてできないのだろう」ということもあるでしよう。実際に耳にすることもあります。ところが詰め込んできたたくさんの情報量に一時混乱するのは当然のこと。大切なのは、起きているマイナスな事態を悲観し続けることを一旦忘れて(≒去私)、そこに裏付けられた学習の軌跡を客観することではないでしょうか。そうすれば、残りの道のりをどう歩んでいくべきかを冷静に判断できます。そして歩んだ分はそれだけ自信になります。その自信を良い天命にゆだね(≒則天)、受験までに私たちにできる人事を尽くしていきましょう。なすがままに。
では、また。
注:(1)…夏目漱石、新潮社(昭和三十六年九月五日発行)より引用。
(2)…志賀直哉、新潮社(平成二年三月十五日発行)より引用。
最近はすっかり涼しくなり、秋らしくなってきましたね。さて、この季節は読書の秋とも称されますね。そこで今回は本にまつわるお話をします。
則天去私。(小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。)これは夏目漱石が晩年に理想とした境地であると言われています。しかし、この境地は漱石の初期の作品にも見られるだけでなく、漱石と交流のあった志賀直哉の作品にも見られます。具体的に場面を目で追ってみましょう。前者については、「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。(略)自然の力に任せて抵抗しない事にした。(P.544…(1))」という節から、後者については、「これまでの場合では溶込むというよりも、(略)それに抵抗しようという意志も自然に起るような性質もあるものだった。(略)今のは全くそれとは別だった。(略)なるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。(略)彼は少しも死の恐怖を感じなかった。(P.553…(2))」という節が挙げられます。
私はこの「則天去私」の「自然に身をゆだねる」という部分の考え方から、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が思い浮かびました。受験勉強の毎日ももう後半戦に入りました。夏休みまでにインプットしたことをアウトプットしていくなかで、「今までやったはずなのにどうしてできないのだろう」ということもあるでしよう。実際に耳にすることもあります。ところが詰め込んできたたくさんの情報量に一時混乱するのは当然のこと。大切なのは、起きているマイナスな事態を悲観し続けることを一旦忘れて(≒去私)、そこに裏付けられた学習の軌跡を客観することではないでしょうか。そうすれば、残りの道のりをどう歩んでいくべきかを冷静に判断できます。そして歩んだ分はそれだけ自信になります。その自信を良い天命にゆだね(≒則天)、受験までに私たちにできる人事を尽くしていきましょう。なすがままに。
では、また。
注:(1)…夏目漱石、新潮社(昭和三十六年九月五日発行)より引用。
(2)…志賀直哉、新潮社(平成二年三月十五日発行)より引用。