春はあけぼのとて夏の夜と梅雨は鬱陶しい。
皆さん、体調などは崩してはいませんか。AAの永岡です。
さて、そんなぼんやりとした気分をはらすため、今日は漢文のある偉人の話をしたいと思います。
『陶淵明』。一度は耳にしたことがあるという人は多いのではないでしょうか。漁夫が桃の林を進むうちに異境に迷いこんでしまう『桃花源記』という散文を作りあげたことで著名です。この今挙げた箇所からもお察しのように、この作風にはかなりの理想論的、非現実的な性格が見られます。それは陶淵明の生き方に由来するものとみえます。かいつまんでいえば、彼は役人の仕事に満足がいかずに『田園詩人』としての道を選びます。田園、即ち俗世間から離れた故郷。それについて彼は、『園田の居(すまい)に帰る』という詩のなかで次のように言及しています。【わかきより俗にかなうのひびきなく 性(さが)もとより邱山を愛せしに 誤って塵網のうちに落ち…】と。つまり、陶淵明はもとより故郷、あるがままのものを愛していたのに、そうでない俗塵に何故かまみれてしまっていたことに嘆いているのです。
さあ、ここで受験勉強に励んでいる皆さんに伺いたい。陶淵明の嗟嘆したようなことを経験したことはありませんか。例えば、「〇日までに△をこのくらいやろうとしたのに…」や「自分の大学への志があったのに、気付いたら他人の浪に飲まれている…」など、【自分の意志と反比例する失敗】をしたことはないでしょうか。私は実際ありました(笑)。しかし皆さん、気落ちしないでください。陶淵明が解決へと導いてくれます。それは彼の遺した【守拙(=不器用を以て生きる)】という言葉によって体現されます。勉強に
勤しむ過程で、起用にも一度も失敗しないやり方を選ばなくてもよいのではないでしょうか。壁にぶつかってあたりまえ。大事なのは、【不器用に辟易せず不器用お愛すること(偏重のある言い方ですが)】。失敗の度にその訳を自分なりに解釈し、改善に向け一途に努力する、それは一見非効率に見えるかもしれない、巧みな技ではないかもしれない。それでも大切なことなのではないでしょうか。
また長くなりました。そろそろ『桃花』の林から出なければなりませんね。これから頑張る皆さんの心に、陶淵明の好きだった『菊』のようなほのかに明るい印象を、一部でも咲かせられたならば良いなと思います。
では、また。