6月になり数日が経ちました。皆さんお元気ですか。AAの永岡です。
さて私の大学では「キリスト教人間学」という授業がありますが、今日は聖書の内容に関連づけたお話をしたいと思います。それは、イスラエルの民がエジプトから解放される物語である『出エジプト記』の黒人霊歌に出てくる、”go down,Moses,way down in Egypt’s land,tell old Pharaoh,let my people go”.という一節についてです。
皆さん、奴隷と聞かれて瞬時に思い浮かぶものはなんですか。勉強・受験の奴隷だ!という人もいるかもしれません。奴隷という言葉そのものがマイナスの意を持っていますから。しかし根底から勉強・受験をマイナス視する必要はあるのか。
奴隷=縛られるものではありません。奴隷は人間としての自由・権利を奪われた存在であり、その状況は変わらないに等しい。では私たちは勉強・受験の奴隷と言えるか。勉強をしていても最低限度の生活はできるし、受験までの過程に失敗した途端に財産を差し押さえられることは決してありません。(極論ですが。)つまり、私たちが奪われていると感じているらしものは人間としての自由・権利ではなく、物理的な時間や完全無欠な精神というものの類ではないでしょうか。安心してください。それらは奴隷のように永続的なステータスのような性格にはなりません。
ここで始めの問題提起に戻りましょう。私たちは勉強・受験を本質的には負に捉える必要はありません。ですが、もし今まで触れたような形而上的なしがらみから自由になりたいなら、「(奴隷ではなく)自分が所有者になる!」と思いながら受験勉強するのはいかがでしょうか。何を所有するかは教養・知識だけでなく各々が大事にしているもので良いと思います。その方が士気が高まるかもしれませんね。
だらだらと失礼致しました。最後にブログの始めに挙げた『出エジプト記』に由来する一節で、対象を皆さんに変えたものを贈ります。
”go our dear students toward triumph,tell our god,let purposes we cherish accomplish”.