皆さんこんにちは。秋も深まり気温が下がってきていますが体調など崩してはいませんか。AAの永岡です。
1つ季節を通り越してまるで冬のような気候ですが、晴れた日にはふと空を見上げると美しい秋晴れが広がっていることにつけても、寂しげな秋らしさがうかがえ何ともいえない感慨深さを感じてしまいます。
感慨深いことといえば、他のAAさんのブログからも分かりますが、高3の皆さんにとってのセンター試験までの日数がもう二桁台に突入していますね。このような状況をふまえれば、体調といった身体面も受験勉強における精神面の両方で参ってしまっている方が多いのではないでしょうか。そんな方にこの時期を何とか乗りきってもらいたいというのが今の私の「本願」です。
ところで、「本願」、これはかの有名な思想家(<僧)親鸞の開いた浄土真宗の考え方にも含まれています。その浄土真宗も含める仏教において「空(くう)」という考え方があります。「空」とは実体を持たない現実の論理のことで、「私たち自身は自力では実体を持たず、持ちつ持たれつの他力の関係性のなかで生きている」という考え方です。
この考え方を大学で学んだ時、「関係性」についてある夏のテーマソングが思い浮かびました。その曲に「駄目だ何ひとつ勝ってない いや待てよ そいつ誰だ」という一節があろのですが、その理不尽さがまさに「空」の論理に繋がっているような気がします。自分、好きな相手(仮にA)という二人称だけの単純な理想的世界には収束する「関係性」は成し得ない。自分の他にもその人のことが好きな人(仮にB)がいる。Bも自分も当のAが何を考えているか不明。AはそのBとの対立の関係性に気が付かなければ何も事実を知り得ない。従って自分対A対Bという構図の輪郭は自分のなかでぼやけていく。このリアル双六のなかでどのマスまでを自分の自由意思に任せればいいのか分からず煩悶する。このとき人は「虚無」を感じる。
このメカニズムは模試においても言えることだと思います。模試が返却された際、皆さんは点数・判定その次には順位を見るでしょうか。順位を目にしたとき、ここに自分の上に存在する漠然としたライバルの塊が浮上してくる。しかしあまりに曖昧模糊としていて、個としての責任を身一つで背負ってしまおうとする人もいるでしょう。それでは荷が重すぎて、モチベーションの極限値が「虚無」になる可能性があります。そんな時こそ、「空」の現実の論理を思い返していただきたい。個だけで存在するものはないということです。塊としてのライバルを想像してその幻影に怯えるのではなく、身近な既知な存在を具体的に心中でライバル視するべきであると思います。幻影に追いかけられる「虚無」と思えた心中が、目に見える自明な対象を得ることで闘いかつ競争に変わる。かくして「虚無」が「虚無」でなくなるのではないでしょうか。
10月の記述模試も過ぎた今、センタープレやセンターが近づいてまいりました。その目標に向かってますます皆さんも頑張っていることと思います。既に上記に挙げた曲の最後は、「僕のものに なるわけないか」で主人公の願いが何かに仮託される形で終わっていますが、皆さんには是非、いや絶対「(合格は)僕(又は私)のものに なるわけあるよ」に書き直していただきたいと強く思います。
では、また。
1つ季節を通り越してまるで冬のような気候ですが、晴れた日にはふと空を見上げると美しい秋晴れが広がっていることにつけても、寂しげな秋らしさがうかがえ何ともいえない感慨深さを感じてしまいます。
感慨深いことといえば、他のAAさんのブログからも分かりますが、高3の皆さんにとってのセンター試験までの日数がもう二桁台に突入していますね。このような状況をふまえれば、体調といった身体面も受験勉強における精神面の両方で参ってしまっている方が多いのではないでしょうか。そんな方にこの時期を何とか乗りきってもらいたいというのが今の私の「本願」です。
ところで、「本願」、これはかの有名な思想家(<僧)親鸞の開いた浄土真宗の考え方にも含まれています。その浄土真宗も含める仏教において「空(くう)」という考え方があります。「空」とは実体を持たない現実の論理のことで、「私たち自身は自力では実体を持たず、持ちつ持たれつの他力の関係性のなかで生きている」という考え方です。
この考え方を大学で学んだ時、「関係性」についてある夏のテーマソングが思い浮かびました。その曲に「駄目だ何ひとつ勝ってない いや待てよ そいつ誰だ」という一節があろのですが、その理不尽さがまさに「空」の論理に繋がっているような気がします。自分、好きな相手(仮にA)という二人称だけの単純な理想的世界には収束する「関係性」は成し得ない。自分の他にもその人のことが好きな人(仮にB)がいる。Bも自分も当のAが何を考えているか不明。AはそのBとの対立の関係性に気が付かなければ何も事実を知り得ない。従って自分対A対Bという構図の輪郭は自分のなかでぼやけていく。このリアル双六のなかでどのマスまでを自分の自由意思に任せればいいのか分からず煩悶する。このとき人は「虚無」を感じる。
このメカニズムは模試においても言えることだと思います。模試が返却された際、皆さんは点数・判定その次には順位を見るでしょうか。順位を目にしたとき、ここに自分の上に存在する漠然としたライバルの塊が浮上してくる。しかしあまりに曖昧模糊としていて、個としての責任を身一つで背負ってしまおうとする人もいるでしょう。それでは荷が重すぎて、モチベーションの極限値が「虚無」になる可能性があります。そんな時こそ、「空」の現実の論理を思い返していただきたい。個だけで存在するものはないということです。塊としてのライバルを想像してその幻影に怯えるのではなく、身近な既知な存在を具体的に心中でライバル視するべきであると思います。幻影に追いかけられる「虚無」と思えた心中が、目に見える自明な対象を得ることで闘いかつ競争に変わる。かくして「虚無」が「虚無」でなくなるのではないでしょうか。
10月の記述模試も過ぎた今、センタープレやセンターが近づいてまいりました。その目標に向かってますます皆さんも頑張っていることと思います。既に上記に挙げた曲の最後は、「僕のものに なるわけないか」で主人公の願いが何かに仮託される形で終わっていますが、皆さんには是非、いや絶対「(合格は)僕(又は私)のものに なるわけあるよ」に書き直していただきたいと強く思います。
では、また。